近畿地方の宗教性動物保護探究―14世紀〜19世紀奈良の鹿を中心に

                 

キーワード: 生類怜れみの令,シカ保護,神道思想,環境科学,奈良地域

序論

弥生時代以来の古代社会において、特に近畿地方では食用家畜を飼育することが少なかったという。一方で、古墳時代の豪族社会では、シカやイノシシなどの野生動物を狩って、食事に加えていたことは有名である。西暦538年百済からの仏教伝来によって、多くの豪族が仏教を信仰した結果肉食から遠ざがり始めたが、シカやブタなどはその例外として、食用を続けられた。

律令国家の貴族政治が盛んになるに伴い、奈良時代の藤原氏は神護景雲2年に武甕槌命を祀る春日大社を建立したが、その主祭神である武甕槌命の使者が「シカ」であったことから、奈良地方に「神鹿文化」という文化が生まれた。

本文では、中世、近世の社会と仏教、神道の観点から、奈良地域の「シカ」に対する宗教的な保護、及び、シカと地域の農業社会や地域政令との関係について、探究していく。

本論

平安時代以来、神道の理念が貴族の間に浸透していたので、貴族たちが毎年、春日大社に武芸や弓馬などを奉納する際に神社の前において鹿に遭遇することが武甕槌命の神の加護を得て、吉兆であると考えられていたことが、神道による、鹿の宗教的な保護の始まりだったと考えられる。『続日本後紀』842 年中の記述には「大和国添上郡春日大神々山之内。狩猟伐採等事。令当国郡司殊加禁制。(承和八年三月一日)」とあり、春日山における狩猟と樹木伐採の禁制を記している。ここから分かることは、当時、春日山より外に生息するシカは、 神鹿として扱われていなかったということである。平安時代中後期の平氏、源氏の武士集団の発生に伴い、特に鎌倉時代の朝廷と武家の並列政治の時代に入ってから、武甕槌命とその使者である「神鹿」への崇拝は新たな高みに達した。

鎌倉時代の社会文献『百錬抄』によると、1236年(嘉禎2年)に武士が鹿肉を食べて公卿に会ったため、公家が大いに怒ったという記述がある。その後室町時代には、神鹿を殺した者を死刑にするという規定が明確に定められており、非常に厳格な宗教と政治の二重保護があった。もちろんこの宗教と政治的な動物保護の規定は、現代の動物学の角度から野生動物を尊重し、保護することとは、全く別のことである。

近世社会の江戸時代には、伝統的な宗教の力に加えて、成熟した武家社会の地域支配力もかつてないほどに強化されていた。また、奈良時代から室町時代までの単純な宗教性による「神鹿」の保護と管理は、奈良地域の行政規定になった。寛文12(1672)年、鹿の角が人を傷つける事件を防ぐため、奈良奉行の溝口信勝は、成獣の雄の鹿に対して計画的な「角切り」を命じた。

そして、奈良町の周辺に「鹿垣」という栅を作り、鹿の出入りを防ぐ。これは「農業は天下の大本」であった江戸時代に、限定区域を離れてしまい、農村に行って農産物を荒らす鹿を防ぐことを目的としていた。もう一つの重要な役割は、分娩期に雌の鹿が生んだ子鹿を荒野の野犬に捕食されないように、保護することであった。

また奈良奉行所では毎年初夏に「犬狩り」の政令が公布され、城戸、油坂、杉ヶ谷町、芝辻、法蓮、川上、野田、京終などの寺社領地を含む集落で野犬の整理を行い、幼い鹿が襲われるのを予防した。鹿垣遺跡は今日も残っており、奈良教育大学の渡辺伸一教授の調査によると、その遺跡は主に現在の奈良公園の北部(象志町など)、東部(大田林町など)、南部(高畑町など)に分布していると言われている。

古代から近世社会の奈良地域における鹿に対しての保護の思想は神道の宗教としての一貫性を基づいていると考えられる。一方、近世社会では幕府権力の拡大が見られた。例えば、個人的な趣味を政治に持ち込んだことで有名な五代将軍徳川綱吉は『生類怜れみの令』を出した。江戸時代の民俗文学『鹿政談』には、奈良の鹿を誤って殺した夫婦が、奈良奉行に死刑に処せられたという判決が載せられている。江戸時代中後期から奈良地域のシカの群れの保護は、古代・中世社会の神道宗教的保護の過剰さから宗教・地域政治を組み合わせた保護・管理の複合的な様相を呈してきたと考えられる。しかし、これは権力者の個人的な考えや好みに基づく行為であるから、一定の期間のみ社会中の動物の生息環境に影響を与えたものの、依然として動物群類の生存保護を中心とした近現代の科学思想とは大きく異なっている。

江戸時代の奈良の鹿は、人々との相互作用の中にあり、貴族や武家の上流の人々が主体となり保護していたが、やがてそれが庶民社会へと移行し始めた。奈良地域の大和路は宿場町の中心として、武士や商人が多く往来している。奈良女子大学の佐藤宏明准教授による『奈良公園におけるシカの功罪』によると、この時点で奈良のシカは約1000頭に達しており、宿場付近ではシカ専用の「せんべい」の販売が始まっていたという。遅くとも1791年(寛政3年)に出版された『大和名所図絵』には、喫茶店で客が「せんべい」を「神鹿」にやる絵が登場しており、鹿の群れが客や子供とやり取りする様子は今の奈良公園に非常に近い。

結論

「近世社会」が「近代社会」へと転換した後、明治政府は神道を国教とし、仏教は主流から排除された。1878年に「神鹿殺傷禁止区域」が制定されるが、この保護区は、江戸時代における以上のような神鹿保護の歴史を踏まえて作られたと考えられる。

1901年には「動物保護に関する要綱」が施行された。これは、その頃のヨーロッパ近代環境科学、動物学に基くいており、のちに動物愛護会へと発展していった。また「動物虐待防止協会」も設立されている。奈良地域のシカの保護については、徐々に宗教的かつ政治的な偶発性から動物学における生物保護へと発展し、動物の生存継続を主体とした保護意識を確立することになる。

注:

1)武甕槌命:日本神話に登場する神。

2)百錬抄:鎌倉時代後期の公家の日記などの諸記録を抜粋・編集した歴史書

3)鹿垣:日本農村版の「万里の長城」,野生動物による農作物被害を防ぐ防壁。

4)奈良奉行:江戸幕府の職名。奈良に駐在し,町政・司法・寺社などを管掌。

5)生類怜れみの令:5代将軍徳川綱吉がその治世中に下した動物愛護を主旨とする法令の総称。

6)『大和名所図絵』:江戸時代の奈良の名所・名産・年中行事などを豊富な挿絵とともに解説の地誌。

参考文献

秋里 舜福(江戸時代)『大和名所図会』

東城 義則『奈良のシカ×生物学史ワークショップ』P20

高橋 春成『地域遺産 としてのシシ垣遺構』P1

佐藤 宏明『奈良公園におけるシカの功罪』P2

溝口 元・高山 晴子『「生類怜れみの令」の動物観(上)』P12、P25

               

作者:

こう がえき

黄 雅弈

京都市立旭ヶ丘中学校3年生

歴史学研究会(THSSJ)若者会員

趣味:社会問題の探究\動物保護

小論文:《伊達政宗と仙台藩の成立探究》(2023年)

指導教師:

コウ カク

黄 鶴

歴史学者

研究分野:東アジア近世史\日本近世史

日本史研究会(JHS)会員

歴史学研究会(THSSJ)会員

中国四川省非物質文化遺産保護協会会員

尾澤裕之

日本語教師

早稲田大学 社会学専攻

研究分野:日本語教育\論文作成指導

図:

図1:春日鹿曼荼羅(奈良国立博物館収蔵)

図2:春日大社

図3:残存している鹿垣跡(奈良市川上町)

図4:『大和名所図会』卷一 ページ25:鹿せんべいと江戸時代の暮らし