少年時代の書画との縁

少年期に深く結んだ縁は、その人の一生に伴うものである。

私は幼い頃から書画・篆刻が好きだった。小学校の時、各クラスは学期ごとに壁新聞を発行し、生徒の美術・創作能力を披露していた。壁新聞のトップを飾るのは、目を引く一枚の絵であり、私のクラスのみならず、他のクラスの紙面のトップ絵も先生から私に任されることが多かった。私はいつも楽しんで描き上げていた。絵を描く傍ら、毛筆で文字を書くことも好きだった。当時の担任の先生は、生徒に毎日大楷と小楷を一枚ずつ書くよう求めていた。私はさらに自主的に練習量を増やした。休暇中には、宿題のほか、水を張った大きなバケツの板を代用紙とし、黄土を水で溶いた墨代わりの液を使って、地面にしゃがんで毛筆で文字を書いた。乾いたら削り取って何度も繰り返し、紙と墨を節約しつつ楽しく練習していた。

日本の侵略により、北京の匯文中学は西安の東関に移転し、私は中学二年生をここで過ごした。当時美術を教えていた田宇高先生は、若く、芸術への執着と追求に心を打たれた。書画が好きな私はよく先生のもとを訪ねた。先生は授業の合間に外出することは少なく、部屋で静物画を描いていた。大雪が降る日には、さらに創作意欲が湧き、厚いコートを着て画帳と折りたたみイーゼルを背負い郊外へ写生に出かけ、寒さを忘れて没頭していた。桃が実る季節のある晩、私は家の庭の桃を摘んで届けた。先生は大変喜び、すぐに皿に桃を並べ、照明を調整して、熱心に静物画を描き始めた。美しい瞬間を逃さず記録しようとする姿だった。先生は主に水彩画を描いていたが、私の依頼を受け水墨画も描いてくれた。私は絵画の技法だけでなく、ひたむきに創作に打ち込む姿勢から大きな励ましを受けた。先生は自ら描いた絵を私に贈ってくれ、水彩画、水墨画のほか、肖像画も描いていた。私を芸術の世界へと誘ってくれた。残念ながら、今手元に残っているのは、『醪糟熱し』と題された水墨画一点のみである。これは先生が街中で鉛筆写生したものをもとに描いた作品で、当時の西安の市井の民俗生活を生き生きと伝えており、大変貴重である。労働者への深い思いが込められたこの絵を見るたびに、先生と少年時代の思い出がよみがえる。

中学二年生の頃、私は篆刻を学び、二人の音楽教師のために石の印章を刻んだ。三年生の時、同じ団地に住む李祥麟氏と知り合った。李先生は于右任先生の秘書で、南京で勤務していた。その年、母が逝去し、李先生は帰郷して喪に服した。南方から持ち帰った竹の材があり、墓に納める印を刻もうとしたが、適した彫刻師が見つからず、私の兄に、私に刻ませられないかと相談してきた。篆刻に熱中していた私にとって願ったり叶ったりで、すぐに引き受けた。李先生が竹に「南無阿弥陀仏」と毛筆で書き、落款に「念慈僧」、そして「鳴瑛作」と記した。李先生が少年の私の労作を尊重してくれた証である。印章はすぐに完成し届けたところ、大変満足してくださり、忘年交の友として接してくれた。李先生が故郷に滞在した数か月、私はたびたび訪ねて教えを請うた。于右任先生の代筆を長年務めていたことが知られ、李先生に揮毫を依頼する人が絶えず、一時は「洛陽の紙価を高める」ほどだった。私を通じて依頼された対聯は十数幅にのぼった。また、自作の絵を持参してご指導を仰ぐと、李先生は私の水墨画に多くの称賛と励ましの言葉を添えてくれた。これらの作品はいずれも散逸し、田宇高先生から贈られた『醪糟熱し』の一点だけが残っている。李先生は毛筆で字を書くことについて、臨書をしっかり学び基礎を固めるよう再三諭してくれ、その教えは今も私の糧となっている。喪が明けて南京へ戻られた後、間もなくご家族から大きな封筒が届いた。中には于右任先生の揮毫が入っていた。四尺の宣紙の中堂で、六七十文字が記されている。当時草書を読めなかったが、周囲の人から大変貴重なものだと聞いた。「鳴瑛棣」と記されており、「棣」は弟にあたる呼称で、年の離れた私への親しみの表れであった。この貴重な作品は、後に北京で読書していた時に文化大革命で失われてしまった。今唯一の願いは、この書がどこかに残っていてほしいということだ。

解放戦争の時期、李祥麟氏は西安にいて、台湾へ渡る予定はなかった。残念ながら、戦乱の中、南京から西安へ帰る道中で病没された。李先生との忘れがたき交流は、永遠の思い出となった。

(本文作者 李鳴琰)